エッセイ
  黒繻子の詩人
 

 クリスマス前頃から、父の七回忌のために約1ヵ月の予定で帰国中である。
 昨夕、用事を済ませて某駅前のカフェテリアでコーヒーを前にして坐った途端、斜め前の席に坐ろうとしている女性に釘付けになってしまった。
 黒ずくめの装いで、濃いめの化粧にはっきいした目鼻立ちを際立たせて年齢不詳、独特の華やかな雰囲気を辺りに醸している。
 しばらく見つめたあと、私は目をそらして遠い記憶を探ってみた。確信はないが、詩人の白石かずこ氏ではないか、という思いが消えなかった。
 かつて60年代にビート詩人の一人として颯爽と現代詩の世界に躍り出て新風を送り込み、その後70年代から80年代にかけての時代性の中で熱くジャズを、新宿を、アメリカ文化を語り、朗読会では斬新で艶やかな姿で話題となっていた白石かずこ氏は、そのエネルギッシュに性の解放をも言語化したスピード感のある詩の新作、著作の数々で人々を魅了するだけでなく、アンダーグラウンド文化の旗手として、学生時代の私には憬れのような存在であった。
 大学入学と同時に始めた演劇活動の2年目の終わり頃から、同人雑誌の創刊にも参画して詩作も試みていた私は、彼女の作品に少なからず影響されたことを覚えている。
 演劇活動の共同体的制約に、協調性に欠ける私は限界を感じてその後の2年間は、踊りに転向しようと模索し始めた末にフラメンコに出会うことになる。
 しかしその模索の期間にいろんなジャンルの踊りの世界を垣間みることになった。
 そのひとつが、「暗黒舞踏」の世界である。そこに集まっていた当時の伝説的、前衛的な詩人、作家や画家を始めとする芸術家たちの野性味に充ちたサロン的空間を覗いた日々の驚き。自分が何をやりたいかもまだわかっていなかった私は、まるで不思議の国に迷い込んだアリスのような思いであった。その頃に確か、白石かずこ氏もお見かけしたのではなかっただろうか。
 その後私がフラメンコを始めてから、彼女がフェルナンダ・デ・ウトレラの唄のソウル性について書かれているのを読んで、そのジャンルを問わない造詣の深さに感銘したのも記憶している。
 そしてあれは85年頃ではなかっただろうか。すでに全世界ツアーを始めていた舞踏団「山海塾」のアメリカ公演の初日に、メンバーの高田君が高層ビルの宙吊りから事故で落下するという、衝撃的な事件があった。
 私も顔見知りでまだ若かった高田君の死は、その後連鎖的に私の周りに起こった知人や近親の死の、まさに皮切りでもあった。
 私がそれまでひそかに考えていたスペイン行きを迷わずに決断したのには、疑いなく彼らの早すぎた死があった。
 高田君の追悼会が劇場で催されて、白石かずこ氏は会の最後に高田君に捧げる自作の詩を朗読された。高田君は、鳥のように空を舞い上がって逝ったというような内容だった。
 私たちは感動して、哀しくて泣いた。
 その会のあとで内輪の飲み会があり、私は初めて白石かずこさんにお声をかけていただくことになる。私はフラメンコを学んでいて、スペインに行きたい旨を語ったのではないだろうか。
 彼女は華麗な外見には似合わず、朗読の時の声とも違い、意外に可愛らしい話し方をされるので私は内心吃驚したのを覚えている。
 そうして話されたのは、彼女が折にふれて自宅で催すパーティのことであった。それはそれは自由で奇抜で意表をつくイベントが一杯で、とても素敵なパーティなのだそうである。お料理もお酒も、集まるメンバーもその時々意趣を凝らして、驚きの連続なのだそうである。かずこさんは、そこで黒繻子の着物を芸者さんみたいに襟を大きく抜いて着て、大きく割った裾から網タイツと針のように細い踵のハイヒールを履いたきれいな脚を組んで詩を朗読したこともあるそうだ。
 どんなにか妖艶で、悩ましい姿であったことだろう!
 私はその光景を想像して、うっとりとしながら彼女の話を聞いていた、と思う。
 そうして彼女は続ける。
 「それでねマキちゃん、今度そのパーティに来てフラメンコを踊って下さらない?
 だけど・・・そうだわ!裸で踊ってもらえないかしら。
 そう、何にも着ないで踊ったら、とっても素敵だと思うわ!
 ねぇ、絶対に来て欲しいわ!」
 もちろん私は、絶句してただ呆然と彼女を見つめるばかりであった。
 その後白石さんとはもうお会いすることもなく、86年末に私はスペインに発った。
          ***
 ふと、コーヒーショップで斜め前に坐っている女性に視線を戻すと、偶然私が抱えているのと同じ近くの大型書店の紙袋から買ったばかりの本を取り出して、煙草を燻らせながら読み耽っている。
 私は声をかけたい衝動に駆られたが、その女性が白石さんであるかどうか、まったく自信がなかった。20年近く前の記憶は鮮やかであるが、今どのようにされているのか、どのようになられているのか見当もつかない。
 私の記憶では、いつも原色の服を独創的に着こなして奔放な天女というイメージであったが、その女性はモノトーンな装いで印象が違う気もした。
 あれはあれで、一期一会だったのだ、と思った。
 そうして、コーヒーを飲み終えてその店をあとにし、次の待ち合わせの約束のために電車に乗った。
          ***
 私は2週間程前の年末に、日本で18年ぶりに踊る機会に恵まれた。
 87年からスペインのセビージャに棲んで長い年月が流れていた。長い間、人前で踊るということから遠ざかっていたのだ。まさにフラメンコ以外に私をセビージャに繋ぎ止めるものは何もなかったし、踊ることは続けていたにも拘らず、私はよいアフィシオナーダ(敬愛する者)になることで精一杯だったのかもしれない。そのくらい向こうのアフィシオン(敬愛する気持ち)は深い、と思う。
 そうして、怖い物知らずに踊りの仕事を試みていた初めの数年を除いて、もう時折のフィエスタ以外は、人前で踊ることはなかった。
 今回カサ・デ・エスペランサのライブコンサートが旧友俵英三さんの尽力とオーナーの田代淳氏の快い承諾を得て決定したのは、コンサートの約一ヵ月余前の11月であった。セビージャでその知らせを受け取ってから当日までの私の心の在り様は、揺れに揺れた。踊れない!という思いから、逡巡しては靴を履き、また頭を抱えるという日々であった。
 この10数年のうちに飛躍的に変わった日本のフラメンコ界への無知、自分の技量的な未熟さ、すっかり忘れてしまった舞台への勘などももちろん怖かった。しかし、当日のリハーサルで初顔合わせした共演者たちが度肝を抜かれたほどの私のナーバスぶり、怖じ気づき方は尋常ではなかったのではないだろうか。
 いったい私は、なにを畏れていたのだろう?それを、白石かずこ氏に昔言われたことを思い出して、気がついた。
 「マキちゃん、裸になって踊ったら?それが素敵なのよ!」
 私は、舞台の上で裸になるのが怖かったのだ。この18年間の私の生活した時間が露呈することが怖かったのである。本当にこの18年間、日々を大切に生きてきただろうか?という問いに、私は確信がなかったのである。
 どんな技術や、振り付けで踊ったところで、残酷にも視えてしまうその人の品性や在り方というものを、その人の才能やテクニックへの評価とは別に、私自身も様々なアルティスタに視てきたのである。
 曝け出すこと、心臓を抉り出して見せるような行為や瞬間を、しばしばアルテは要求する、と思う。
 さいわい年末のライブコンサートは、私のパニック的心理状態をよそに、暖かい多くの観客の方々と、魅力一杯の共演者に支えられて無事終わった。
 本当に愉しい一夜で、私はすっかり胸が熱くなってしまった。
 そうして、それがどのように視えたのかを私は知ることはできないが、やっぱりフラメンコはその人の佇(たたず)まいのようなものである、という思いは今も変わらない。

2005年正月
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