エッセイ
  アイレ ホンド AIRE JONDO
 
 
ペパ・デ・ベニート(Pepa de Bnito)との出会い
 マドリッドでの生活を半年余で切り上げてセビージャに移り棲んだ私が、ペパ(Pepa de Benito)に初めて出会ったのはその翌年に初めて行ったロシオ*の巡礼地であった。
 何もかもが未知で怖いもの知らずだったあの頃の無謀さには、自分でも呆れる。

 巡礼といっても日本の禁欲的なそれとは似ても似つかない祝祭としての行事は、宗教的動機を遥かに超えて野生とエロスに充ちた喧噪と混沌の様を呈する。
 しかし自然の懐に抱かれて原始に戻るという意味では、本来の日常生活からの浄化の目的を十二分に達し得る、壮大な共同体験である。
 つまり飲めや唄えの享楽の限りを尽しながら、ロシオのヴィルヘン(聖母マリア様)をお参りするという行程である。
 それ故か異教(パガーノ)的、地方土俗的要素が強いという説もあり、マリア様の奇跡や出自の信憑性が問われていたのか、カトリック教総本山のバチカンから正式承認されたのは比較的最近である。
 しかしアンダルシアの人々は春の訪れと共にセマナ・サンタ(キリスト復活の聖週間)、フェリア(春祭り)を存分に生ききると、今度はロシオだと落ち着かなくなるのである。
 伝統的共同幻想のある民は幸いかな…。
 それにしてもそれぞれが準備に時間をかけて、いくら時節の良い晩春から初夏にかけてとはいえ、沙漠の風土と気候の中に8〜10日ものあいだ野天や幌車、テントに過ごすのだからそれなりの用意が必要である。
 金持ちのセニョリート階級はこれ見よがしに華やかな衣装を纏い、馬に跨がり、豪華トレーラー車を従えて参加する。
 大方の平民は地域の講に入って年間に積み立てた資金で、家族や仲間を主体としたグループごとに幌付きの牛車(カレータ)を仕立てたり、キャビン付きのトラクターを借りて食料を満載し、手作りやあり合わせの衣装を着て隊列を組む。
 たまにそれらの人々の慈悲にあずかって、一人で杖一本で巡礼し通す輩もいるが、ロシオでは皆寛大とはいえ施しはいつもあるとは限らない。
 そしてここぞ生活の糧をと、セニョリートたちに奴隷のように仕えて眠らずに働く人々もいる。
 一目瞭然の階級社会は厳と対比を見せつつ各々の役割に徹し、各々が愉しむのである。
 しかしそれらの様相が見えてきたのは、後のことである。
 哀しいことにカトリック教の動機も、属する階級も地域講もない一異邦人、しかも東洋人という当時アンダルシアではほとんど宇宙人扱いだった私が、ろくな前知識もなく準備もせずに好奇心だけを爛々と輝かせて単身ロシオに乗り込んだのである。
 私なりの想像力で、古着の綿レース付きの長いスカートに襟の高いブラウス、ズタ袋には必需品に加えていざという折の延命にとチョコレートを忍ばせた。
 ところが半日にして服は汗と砂塵でドロドロとなり、40度を超える日中の炎天下にチョコレートは溶けてバッグに黒い染みを作った。
 フィノやマンサニージャ(シェリー酒の種々)の振る舞い攻勢に朦朧とし始め、立ち続け歩き続けに緊張と驚きの連続が加わってクラクラとする頃、その日に眠る場所もないのは私だけではないかと気づいても途方に暮れるばかりだった。
 疲れを知らず不眠不休で唄い踊り、飲んで食べて、尚エロスを謳歌堪能する彼らの体力にはすっかり怖れ入ってしまうばかりであった。
 フィエスタ(宴)を梯子するごとに感激は疲労に、愉しさは次第に苦痛になっていった。しかし状況に呑み込まれたまま、必死で目を開けていること以外成りゆきに任せるより他なかったのだ。
 "ロシオで誘われても、うっかり男と馬に乗ったりしてはいけないよ"、とフラメンコの老マエストロ(師)に冗談ともつかず言われたことが、フッと頭に浮かぶ。しばし休息できるのならどんな誘いにでも乗りかねない極限状態。
 第一日目からにしてそんな有り様だった。
 しかしここアンダルシアでは紆余曲折の果てに諦めた頃、ひょっこり辻褄が合って救われるということが屡々あるのだ。
 即興と体当たりににっこりと微笑む運命の神は、偶然を弄ぶ。
 一日目の午下がり、質素な幌車の前で車座になって昼食を囲んでいるペドロ・バカン(レブリハ出身のギタリスト。後に自分のグループを率いてフラメンコ史に独自な録音や公演を実現する。1997年事故死)一族に出会ったのである。
 ご馳走になった素朴な昼食も美味しかったが、食後のフィエスタ(宴)が素晴らしかった。野心や報酬目当てではない、芯から自分たちが愉しむための宴。ウトレラとレブリハ**(いずれもセビージャ県のフラメンコの伝統のある村)出身の、多くはプロではないアルティスタ達が、ペドロの巧みなギターに乗せられて入れ替わり立ち替わり唄っては踊る。
 陶然としては笑い、掛け声に湧いてはパルマ(手拍子)が心地よいブレリアのコンパスを刻んで、松林に溶けていく。
 そのピニーニ一族(歴史的な唄い手であったPininiの末裔親族)の味わい深いアルテの醸すアイレ(空気、雰囲気)
 野営の昼食では、太った躯にエプロンをして“さぁさぁ皆ご飯だよ”とヒターナ(ジプシーの女性形)の典型的肝っ玉母さんのペパが、唄いだす。
 その唄は野太く、誠意に充ちていぶし銀のように光る。
 アナ・ラ・トゥルネーラ(有名な唄い手トゥルネーロの妹)の
唄とグラシア(愛嬌)たっぷりの踊り、ガスパール・デ・ペラーテ(偉大な唄い手ペラーテの息子)の至芸のひと踊り、レブリハのベテランギタリスト、ペドロ・ペーニャの渋い唄、レブリハの爺さん婆さんたちの年期の入った唄と踊り、エル・マンコ(片腕の意)のゆっくりとしたブレリアは甘く、心に滲み入る。
 ペドロ・バカンのギターが冴えて、人々の感情の襞を縦横する。
 しかも儚い夢のような幸せな午後は、場を彼らの親しい支援者の館に変えて延々と夜まで持ち越され、折しも続々と巡礼地へ到着する人々がまたそれぞれの芸を披露して熱を帯びていく。
 ロシオの感慨を分かち合いながら、明け方には魔法にかかったように佳境に至り、真のアルテが静寂に木霊して、涙が頬を伝っていった。
 不安も疲労も睡魔もとうに霧散してしまい、時は止まったまま異次元へと拡がってゆく。
 そこにはロシオという年に一回の特別な背景とシチュエーション、解放感と神聖な思いに加えて、ウトレラとレブリハという親戚関係にある村を源にした、フラメンコのアルテに対する愛を共有する人々の'輪'があった。
 階級や雇用関係、家族の単位を超えて、しかも瞠目するべきなのはスペイン人(パージョ)とジプシー(ヒターノ)が溶け合って自然なハーモニーを奏でている光景は、私の胸を打った。
 そのような現象はフラメンコを濃く伝統とするヘレスやモロンの村々にも見られる混血調和の光景だが、とかくフェリアやロシオという晴れの場においては、宴を主催するセニョリート階級(パトロン的立場の人々で多くはスペイン人)と契約されたアルティスタ(多くはジプシー)という関係性に集約されがちなのだ。
 私がそのロシオで、そしてその後もペドロ バカンらに教えられたことは、アルテに対するプーロ(純粋、無垢)なアフィシオン(愛好する気持ち)と姿勢であったと思う。
 それが深くなくしてその先はあり得ないということを、彼を中心とする人々はその後も実践して生きていった。
 実際にロシオに仕事で来るアルティスタが大半のなかで、彼らは身銭を切った慎ましい仕度で来ていて、のびのびと自由で愉しそうであった。その動機はかつて生活のなかにのみ生きていたフラメンコ、祝祭事で親しい者同士が愉しむという原点に一致する。
 だから掛け値なしの、喜びの、哀しみの、嘆きの真情吐露 になり得るのである。

 杯が重なり、出会いによって気持ちが昂まり、唄の感情の発露に共感の吐息を洩らし、泣いたり笑ったりはしゃいだりして、至福の夜は押しては返す潮のように更けていった。
 ふと窓の外を見やると、漆黒の闇は藍色に明るんでいる。
 やがて朝の光りに湿原の空は白み、辺りの深閑とした林に鳥がさえずり始めた。皆心地よい疲労に充ち足りて、一人またひとりと席を立ってゆく。
 また明日ね、と親愛をこめた挨拶と頬キスを交わして、それぞれの寝床へ短い休息をとりに…。
 さて、と私は感動にうっとりとしたまま一歩外へ出て、早朝の刺すような冷気に慄え上がってしまった。
 夢から醒めて、現実に急降下したのである。
 気温差の激しい沙漠の気候のアンダルシアのなかでも、ここロシオ近くの湿原の夜は冷え込みが酷しい。日中の炎暑には暑かった長袖のブラウスに、持ち合わせの薄いショール一枚では歯の根が合わないほどで、それに一体どこでどうやって休息をとったらよいのだろう。
 昼間にあちこちでさんざん歓待されて、恐縮して感謝を述べては後片づけを手伝ったりした折、何人かの人々が余りの私の無謀さ加減に呆れたのか、同情したのか、“ロシオは、そうやって来るものじゃないのよ”とそっと耳打ちしてくれた。
 言われるまでもなく身につまされていた。
 一日中見聞きしたことのすべてを丸ごと呑み込む瞬間の連続。
 体で感じて理解したことは膨大で、私を打ちのめした。
 しかしとりもとりあえず、当座の問題を何とかしなくてはならない。悄然として、ペドロたちが彼らの幌車の方へ三々五々戻っていくのに後ろからついてゆく。ロシオでは気前よく振る舞い、分かち合うのが巡礼の心得とはされているが、それぞれが自分の寝食を確保した上でのことである。寝袋と毛布は必需品で、金持ちの豪壮な別荘も客人には二段ベッドを列ねて供する非常事態である。寝具も水も食料も、期間と人数を計算して用意されているのだ。誰にも迷惑はかけられない。
 皆が各々幌車へ、テントへ、あるいは寝袋に包まり車や樹の下へ潜り込んだ後、私は彼らの片づけ残した折り畳みの椅子に坐って慄えていた。そうやって陽が高くなるのを待つしかなさそうだった。
 その時ペパが、太った躯をゆすりながら通りかかった。私をちらっと見ると“ちょっとこれを預かってね”と抱えていた毛布を私の膝にのせ、用足しにでも行くのかまた去っていく。凍えていた私は、束の間でもとその毛布の温もりにかじりついてペパを待つうちに、意識が遠のいてウトウトしてしまったのだ。
 戻ってくるはずのペパはどうしてしまったのだろう、と時折目覚めながらも猛烈な眠気には勝てず、また椅子の上で昏々と眠ったらしい。
 ハッと気づくとすでに陽光は痛いほど白熱し、足元の砂はチリチリと灼け始めていた。
 幌車から起きだしてきたペドロの義兄弟分のパコーテに、“ペパはどうしたの?”と聞く。“えっ?ペパはアントニオ(ペパの夫)の毛布に潜ってずっと眠っているよ”、と不思議そうに言う。
 その時初めて、私は彼女の、ヒターナの、繊細な優しさに気づいたのである。何気なく、恩着せがましくもなく、彼女のたった一枚の毛布を、その日初対面だった東洋人の女の子に貸してくれたのである。
 それが、ペパとの出会いだった。

*ロシオ:スペインのアンダルシア地方、ウェルバ県に位置する小村で、通常はほとんどゴーストタウンだが、ロシオの巡礼祭にはアンダルシアを中心にスペイン各地から百万人以上の人々が訪れる。日取りはその年のカトリック暦から換算され(5〜6月)、ロシオの主聖堂に安置されている聖母マリアを、日曜日の真夜中に担ぎ出す。各地の巡礼団は隊を列ねてその日の前後3〜4日かけてロシオ村を往復し、聖母の僥倖を仰ぎ讃える。ロシオ周辺はドニャーナ国立公園の保護地帯となっているため、原始的な行脚は砂地と松林と川の原自然のなかで脱文明、祭りの行程は脱日常を実現する、文化人類学的にも興味深い浄化(カタルシス)作用を内胞している。

**ウトレラとレブリハのフラメンコ:定住のヒターノらがそれぞれ独特のスタイルを生み、セビージャのフラメンコとヘレス、カディスのそれとを繋ぐ。ウトレラのピニーニ(Pinini;フェルナンド・ペーニャ)の一族からは、かのフェルナンダとベルナルダ(ウトレラ)姉妹を始め多くの名アルティスタを輩出し、婚戚関係からレブリハのペーニャ一族(レブリハーノら)の血縁でもあり、両村の交流は深い。

ペパ デ ベニート(Pepa de Benito)
 ウトレラ(セビージャ県)出身のヒターナ(ジプシー)。結婚後セビージャ市在住。父方の祖父ピニーニは唄い手一族の創始者として歴史に残る。
 父ベニート・ピニーニもまた唄の名手で、その薫陶を受ける。一族にはチャチャ ルイサ、マリア・ペーニャ、フェルナンダ・ベルナルダ姉妹を始め女性の唄い手も輩出しており、伝統ある環境に彼女自身のアルテ(芸)を自然に育む。
 とりわけカンティーニャ、ブレリア、ソレア・ポル・ブレリア形式のファンダンゴにその伝統を継承する。現在では貴重な存在となってきたフェステーラ(唄って踊るスタイルと、内輪で催されるフィエスタ"宴"でのみ芸を披露する生き方の双方を意味する)の生き証人である。
 したがって公のデビューは遅く、80年代の後半に親族の一人であるレブリハのギタリスト、ペドロ・バカンの誘いで彼のグループ“ピニーニの一族”結成に参加、以後活動を共にして数々の舞台を踏む。
 1997年のペドロ バカンの突然の死によりグループは解散。その後ソロで録音や舞台活動を再開し、静かな不動の評価を高めつつある。
 フラメンコ評論家ミゲル アカルが彼女を評した一文のなかに、“原始的というより素朴で、飾り気なく、洗練されてはいないが率直で、純粋、そして不変である。彼女の唄には、人間であることの日々の普遍性が響いている。主張というより嘆きが、慟哭より痛みが、叫びより無念さが、そして謙虚にして正統なる悦びが、暗闇に輝いている。彼女の天性のカリスマ的気性、力のある、寛容な、時として悲痛な聲が、聴く者を惹き付けて放さない。”という一節がある。
 ペパを語って的確である。
 実生活では一女二男を育て、アントニオ バルガスという良き伴侶と二人三脚ではあったが、その道程は平坦ではなかった。過去に脳腫瘍と乳癌を患い、今は4人の孫もいるが常に多くの親族や友だちに愛情深く、慕われている。そんな彼女の訥々としてせつなく、甘やかにして説得力のある、誠実で暖かい人間性、母性そのもののような語りかけが、私たちを魅了してやまない。

主な公演記録
        タイトル       場所(F.:フェスティバル)
1988年   El Clan de los Pinini       パリ(フランス)
        (ピニーニの一族)
        Lebrija Flamenca       アルル(フランス)
        (レブリハのフラメンコ)
1990年   Nuestra Historia al sur
        (南への私たちの歴史)
              セビージャ;F. ビエナル (スペイン) 
                      カディス(スペイン)
                   バジャドリス; F.(スペイン)

1992年              アヴィニオン; F.(フランス)
                 モン デ マッサン; F.(フランス)
                     ジュネーブ; F.(スイス)
                   パリ;オペラ劇場(フランス)
                 カンヌなど4都市巡業(フランス)
1993年                  ブレスト(フランス)
                       パリ;F.(フランス)
1994年   フラメンコの秘宝      マドリッド(スペイン)
                      アンダルシア各地巡業
      ペドロ バカンとそのグループ モントリオール(カナダ)
                  セビージャ近郊; F.(スペイン)
                      トウルーズ(フランス)
               マイレーナ デ アルコール(スペイン)
1994年   “ジプシー音楽の出会い”    ルセルナ(スイス)
1996年           セビージャ;F. ビエナル(スペイン)
1997年   キューバ音楽とフラメンコの出会い
                  セビージャ近郊各地(スペイン)
(以降ソロ活動)
1998、2000年 ウトレラとレブリハの大家族
                セビージャ;F.ビエナル(スペイン)

 〜2001年まで毎年、モン デ マッサン(フランス)のフェスティバルに招待アーティストとして参加、2001年にはオマージュ「頌;ペパ デ ベニート」が催された。

2000年                 F.グラナダ(スペイン)
                     F.バルセロナ(スペイン)
2001年         セビージャ;セントラル劇場(スペイン)
            セビージャ近郊各地;各ペーニャ(スペイン)

*以降2005年まで、モン デ マッサン(フランス)のフェスティバルとビエナル デ セビージャへの出演は続いている。

主な録音(CD)リスト
・Noches Gitanas en Lebrija(W Volmenes) : EPM-MUSIQUE
・Cante de Fragua y de Fiestas : EPM-MUSIQUE
・El Clan de Los Pinini en directo : BOBIGNY(PEE WEE RECORDS)
・Yo vengo de Utrera - Pepa de Benito en directo : HARMONIA MUNDI

***
 ぺパと知り合って十数年にもなる。それは彼女が公にデビューしてからの年月と、私のセビージャに住む歳月ともほぼ前後して重なる。いくつもの懐かしいエピソードと哀しい思い出、忘れられない幸せな時間を共に生きたともいえる。
 それは彼女の家族や周囲の人々とのつき合いでもあり、ウトレラやレブリハの村々との関係でもある。いつのころかペパとアントニオの夫婦は、私のことを'養姪(sobrina adoptada)'と呼ぶようになった。親しくなるとすぐに誰彼なく'プリモ、プリマ(従兄弟、従姉妹)'と連発するヒターノ(ジプシー)の習慣を考えると、それにはもう少し真剣なニュアンスがある。
 去年(2001年)の春、ペパの伴奏者であるギタリストのアントニオ・モジャとウトレラの若いカンタオーラ(唄い手)、マリア・ペーニャがめでたく結婚した。結婚式でペパはそのマドリーナ(後見人)を務め、ウトレラで夜徹しのフラメンコのフィエスタ(宴)が繰り展げられた。ペパも心をこめて唄い始め、途中私が指名されて短いブレリアを踊るという一場面があった。余りに自然な成りゆきでペパの唄に応えた私は、その時突然圧倒的な幸福感に充たされて、呆然としてしまったのだ。
 そして、それは強烈な余韻となって残った。
 今まであんなに幸せに踊ったことがあっただろうか。
 ふと考えてみれば、ペパと数えきれないフィエスタを一緒に過ごしたはずなのに、なぜかペパの唄で私が踊ったのは、それが初めてだったのだ。まるで天からの贈り物がその機をずっと待っていて、ポトリと掌に落ちたかのようだった。
 その日から、ペパといつか舞台を共にしたいという思いが膨らみ始めた。
 セビージャに住み始めて15年目になる。その間、私の敬愛する素晴らしいフラメンコのアルティスタが何人も逝き、時代も世代も変わろうとしている。フェルナンダ・デ・ウトレラも病で唄えなくなって久しい。日本にせめて一度招聘するべきだったと慚愧の思いである。だから、それだからこそペパといつの日か一緒に舞台を踏みたい、と秘かに希い続けているのである。

横田 万紀
*以上は2002年に、ペパからの希望もあり私の約15年のスペイン生活と20年余に渡るフラメンコへの愛を何らかの形に結実させてみたいと、日本の某プロデューサーに提出した企画書の一部である。現在まで応答はない。 私の堆積してゆく夢が、いつかかなうことがあるのだろうか…?
2006年記
■エッセイ 09年博多ロス・ピンチョスライブレポート | アンダルシアへようこそ 
幻覚の街セビリア | AIRE JONDO | 黒繻子の詩人